私が見た東日本大震災。

あの日の写真、
埋もれさせないために。


地震直後、指定避難場所にて。
怯えるオトナと違って、ちびっこたちはきょとん。

沿岸部が津波に襲われていた頃、
何も知らず、大雪の中、自宅へ向かって歩いてました。

翌日、
建物の倒壊の恐れがあるとかで事務所に入れず、
会社の駐車場に座ってたら、
他の会社のおじさんが「ほら食え。」って、
クールに食糧くれました。

その後、10分だけ入れてもらえた。
開いた引き出しにコーヒーがこぼれてて残念なことに。


停電してた間、
新聞の情報がすべてでした。


テレビでよく見た光景、、、
スーパーに並ぶ列。

数キロ先のガソリンスタンドに並ぶ列。

銭湯にも長蛇の列。

にしき湯さん、、、
並んでもいいから私も入りに行こうかなーって言ったら、
これ、前日に整理券受け取るのに並んで、
さらに翌日お風呂入るのに並ばなきゃいけなかったんだって。

しかもここ、、、
3月末日で廃業することが決まってたとのこと。
最後は、たくさんの市民に喜んでもらえて、
有終の美を飾れたのだと思います。


自転車通勤するヒトが増えて、
自転車屋さんの空気入れが大人気。


街の中では、
ほとんどの店が閉まっていて、

従業員に向けた貼り紙に緊張感が溢れてました。

一番町の時計は倒れてるしねー。

この新幹線は、結局4月下旬までここに止まったままでした。


会社には、
東京から会社のえらいヒトが物資を運んできてくれました。

東北道がまだ閉鎖されてて、新潟を経由してきたみたい。
新潟のおかーさんたちが作ってくれた大量のおにぎり、、

冷たかったけどあったかかったです。
それから、
送られてきた物資で、毎日お昼に社内炊き出しが始まりました。

これがみんなでわいわい楽しくて、
休みの日もお昼食べにだけ会社行ってた。
でも、被災地が身近じゃない人には言えないような話ばかりで、
そんな話で盛り上がるうちらは絶対狂ってる、って思ってて、
そのころは、外部の人たちとの交流をちょっと控えてたと思います。


地震数日後から、
石巻石巻と、、うわ言のようにつぶやいてましたが、
実際に行けたのは、
休職の宣告を受けた3月の下旬でした。


津波が襲った道路はまだ茶色かったよ。

泥だしボランティアでお邪魔したおかーさんち。

別れ際、涙浮かべて「ありがとう」って言うおかーさんに、
涙こらえて「また明日も来るからー。」って言ってたのに、
結局翌日行けなかったことが今でも心残り。


そんなことがあった私の3月です。